ごめんなさいのメール その後

私は大学在学中に教授の秘書をしていたことがあります。

 

私にとっては師匠です。

その先生とは卒業して、しばらくたった今でさえなお、お付き合いがあります。

私はフリーで働いているので、たまに大学に顔出すんです。

そして、節目節目でメールも打つんです。

 

今回のことがあって私は、先生にごめんなさいのメールをしたんです

幸せになれなくてごめんなさいって、不出来な教え子でごめんなさいって

先生はいつも、私に良いことがあっても悪いことがあっても電話をくれます。

繁忙時以外は。

 

今回もそうでした

入ってきたショートメール、

たまたま、寝る数時間前に飲むハーブティをとりに自室に戻ってきたタイミングでした。

いつもそう、いつもはかったようなタイミング。

 

色んなことをお話しさせていただくんですけれども、

お話を聴かせていただくんですけれど。

先生の言葉はいつも、優しくて深くて面白くて、見識が深くて私には本当に薬。

そして、たまに関係性が謎なくらい、お互いの内緒話もするんですけれど、

私が卒業生だから良いのです笑

今回は本当に、心配していただいて、お気遣いいただいて、

メールの段階で、もう泣きそうだったんだけど、内心、危なかったです。

 

 

あぁ、この人の教え子でよかったっていつも思います。

らしくない、きみらしくない、そんなの、頑張ることでも謝ることでもない。

今はゆっくり休んで、顔見せてくれって。

そういって曜日まで指定してくれる先生が、私は、心の底から尊敬してるんです。

 

もうだいぶ、出世なさってしまったけれど。私の大事な師匠です。

ごめんなさいの手紙

私は手紙を書くの趣味の一つだったりします。

趣味なのか、なんなのかよくわからないのですが、書くこと自体が趣味なんだと思います。打ち込むこともかくことも私には一緒です。

 

ある人のファンになってからそうなったんですけれども。

最近、長年付き合ってきた彼との同棲を解消して、そのことを色んな人に言わなければならなくて。

私、友人の集まりは必ず、幹事を任されていてというか、私が一番上手いので笑

 

それで、年末にとか、会う時期が決まってる友達や

文通をしている友達だとか、いろんな人が全国にいて。

その人に、その事実を言わなければならないんですよね、責任だし、住所変わるし笑

 

いつもはとりとめもないことや、

自分より若い友人には、相談に乗ったり、

楽しいことを書くんです

相手を思いながら

そうやって手紙を書くんです

そして、いつも紅茶を入れるんです。

 

私は比較的、安定しない人生を送っていて。

病気をして療養の為に引っ越ししたり、より高度な治療を受けるために戻ったり

家を飛び出したり実家に戻ったり。

色んなことがあったけれど

余り、今迄、なんというか、心苦しい手紙って書いたことなくて

前向きに移動したとかそういう色が強くて。

今回もそうだったんだけれども

 

でも、やっぱりそれでは書けない人もいて。

師にあたる方って、それをお話しするのが本当につらくて

でも、もっとつらいのは、それを隠したまま、これからを過ごすことなんですよね。

 

自分を偽って、私は変わらず幸せですなんて、私は自分が尊敬してる人に言えない。

だって、尊敬するくらいに近くにいた人で、感謝してるから。

嘘をつくのは簡単、良い人ぶるのも簡単、でも、きっと罪悪感で心がむしばまれる。

私はそういう人間だから

 

ごめんなさい、こんな報告で

でも、先生に嘘をつきたくなくて…と

勇気をを振り絞って、ダメな教え子だなって思いながらメールを打っていた

そんな一日でした。

 

思えば

思えば私の短い、共に暮らした時間は自分の持っていた習慣を壊したものばかりでした

 

私だけではなく、人というものは習慣とともに生きています。

食べ物からお風呂、全てのことが習慣として根付いているのです。

 

一緒にだれかと暮らすということは、それを破壊して再構築するものだと思うのだけれど

私は、人に合わせるのが上手くありません、すごくマイペースで。

でも、頑張ったと思うんだけどね

 

色々と自分の中にあった習慣を壊してしまいました

自分の中にあった大事な習慣です。

それのおかげで、だいぶ自分もかわれたのに

 

いくつか前の記事の中で私はキラキラは虚像だと書いたけれど、私がそうだったのかもしれません。

普通の女の子になりたくて、できる限り、お付き合いしていた人に合わせて

それが幸せだと信じたかったのかもしれない。

それが愛されてることだってことだと思いたかったのかもしれない。

 

でも、私の本当に求めていることや、考え価値観は違って

私の中に根付いていた習慣が破壊され、私は最終的に、最低限のことをするので精いっぱいのロボットのような生活を送っていました。

私はどこにいたのか、私にもわかりません。

 

それが幸せかといわれたら 答えは言わずもがなですよね

あまいな、私も。まだまだ頑張らないとなと思いながら。

 

それでも、人は安心できるところにいれば回復するもので

こうして文章は書けるようになり、お昼ご飯を作れるようになり

今日も仕事をするのです。

 

人間って、強い生き物です

そして弱い生き物です

パパ 誕生日おめでとう

私の父は 非常に厳しい人で頭のいい人です。

 

そんな父の誕生日です。

 

今は尊敬しています、私が恐らくどんな努力をしたとしても父には勝てないです。

そのくらいの努力家であり、頭の持ち主です。

 

私の父は若いころ。

実家の工場を手伝いしながら、大学教授の手伝いをしていた人です。

片方には実家の仕事を引き継ぐ未来、そして、もう一つは大学教授を確約された未来。

そして、ある企業で技術者として働く未来すらありました。

そのくらいのひとです

 

過労が原因で40歳の時 倒れました。

 

そのあと、私と弟が生まれました。

 

父は鬼の様に厳しかったです、幼かったころ、

私は映像記憶能力というものがどうやらあるようで、

今でも幼いころに見たことをいくつか覚えています。

そのうち1つは、映像ではなく雰囲気で 

あったはずのない死んだおじのことを覚えています。

そして、もう一つは 

家に嫌がらせされた瞬間を見ていて、それを今でも再現できるのです。

恐らく確かな能力です。

 

そんな私は幼いころから、神童と呼ばれた弟と兄の2人に挟まれ、

勉強が得意ではありませんでした。

必死に勉強しても、向き不向きが強い余りに、よく怒られました。

お外で遊ぶのも時間の制約がありました、色んなことを制限されて生きてきました。

 

そのせいで、一時期

聴覚が一部失われました、最近、戻ってきたのですが。

 

一時期、あまりの厳しさに心をバッキバキに折られたことで実家を飛び出したこともありました。

 

でも、その時はじめて父とぶつかって更に逃げ回り

重篤なアレルギーを発症して家に戻ったとき、父から昔のような鬼はいなくなっていました。

 

それからは、弟が結婚したり、父が手術したりと穏やかな時間が過ぎて。

今ではすっかり溺愛されている私なわけですが

 

家にいることの多い私は、父と一番話すのです。

そして、つい最近まで同棲していた私もまた、よく実家を思っていました。

 

気づいたら一番、尊敬しているのは 父でした。

 

私は、今年、父にバースデイカードを書こうと思っていました

でも、同棲解消に伴い、心神喪失状態にほど近くなってしまい、書けませんでした

 

書くことは、自分と向き合うことなんです。本当に。

言い訳がましいかもしれませんが、父にすら文字を書くことができ状態ではなかった

 

69歳の父の誕生日、悔しいです。

お父さんのこと、大好きで尊敬してるのに、その気持ちすら出せなかった自分が悔しい

1年後、書けるかな。書きたいな。

 

頑張ろう、ひたむきに頑張ろう

あぁ、悔しい悔しい

そんなことを思う、娘の私なのでした。

 

「私は幸せ 私の答え」

 

リリースが決まった時から、こころがざわついていた

「私は幸せ」

 

私はずっと心がざわついていた

私は幸せなのか、と。

その時の私は10年付き合った彼と同棲していたんだけれど

自分が自分でなくなっていたようだ。

 

まだ、実家に戻って時間はたっていないのだけれど

今になって振り返ると、私はきっと長い間、幸せじゃなかった気がする。

ちゃんと恋愛ができなかったのだとおもう。

 

両親に愛され、家庭は確かにいびつで

いろんなことがうまくいかなかった、けど。

それもぶつかりあって解決したはずなのに。

すべてうまくいくと思っていたのに。

 

彼でいいと、そう信じていたかっただと思う

私はきっと、それが幸せだと思っていたし、信じていたかったのかもしれない。

すがりたかったのかもしれない。

そんなにかわいくなくたって彼氏がいて、そんな自分でいたかったのかもしれない

そのまま結婚して子供を産んで普通になりたかったのかもしれない。

 

世間に背いて生きて、世間がうらやむ10年愛で結ばれたかったのかもしれない。

一番、世間を気にしていたのは、こびていたのは私なんだと思う、きっと。

一番普通に焦がれていたのは、きっと私だったんだろう。

生まれた時から、体が強くなくて普通に働くこともできないのにね。

今は、一番普通に到達したいというか、普通がまぶしい。

悲劇のヒロインとかじゃなくて、家族連れがまぶしい。

私はどこで間違ったのだろうと。後ろを向いても仕方ないけど。

 

私は幸せか、と問われたら、今は幸せと答えるであろう。

でも、この10年はと問われたら、悔いはないけど、

無理しすぎたかなってきっと答えると思う。

 

 

私は幸せ 柴田淳

 

 

 2つ載せちゃうあほの子です

 

柴田淳 しばじゅん じゅんちゃん、そんな愛称で呼ばれる彼女。

かつて昼ドラの歌姫とかブログの歌姫と呼ばれてたかもしれない。

もう彼女を語るのには時間がたちすぎた。

私は14歳の時、新聞の紙面上で彼女に出会った。小さなCDのおすすめ記事だった。

そのタイトルは「未成年」

子どもの視点に立って大人を描いた今では、本当に秀逸な作品だと思う。

 

当時、14歳と思春期真っ盛りで、色んなことを考えていきづらさとともに生きながらえていた。

くだらない毎日に辟易して、MDの音楽で無理やり、学校に向かう気力を振り絞り、毎日勉強して、恋もして、でも、人間関係に辟易して、生きることにも諦めていた。

そして、何よりも大人に絶望していた。

優等生を演じながら、悲しみや怒りというものを封じ込めて生きていた。

仮面をかぶって生きていた。

 

CDショップ全盛期、浜崎あゆみと、宇多田ヒカルや、なんでもCDが売れる時代だった。100万枚も売れる時代だった。

そんな時代に、聴いてみようと、視聴目的で入ったCDショップ。

聴くまでもなかった、まずジャケットにほれ込んだ。

余りに儚く美しく黒髪の似合う・柴田淳という存在にほれ込んだ。

その場で、持っているお金で、視聴もせずにシングルを買っていった。

 

それが私の柴田淳ちゃんのファン歴の始まりだった。

私は、当時、不器用なのに、器用といわれたり、嫉妬されたり、色んなしがらみに縛られて、毎日に絶望していた。全てに絶望していた。

毎日に絶望して、学校に行くことの意義も見いだせず、人生も見いだせなかった。

生きてることさえ見いだせなかった。自信もなかった。

私はどこにいるのかさえ分からなかった。上手く笑えなかった。

このまま人生どこにいくんだろうと思っていた。

 

まさに悲しみや虚無に縛られているような状態だった。

でも、虚無や悲しいということを表現できなかった。

感情が無いに近い状況だった。

そんな状況を打破するでもなく励ますでもなく、ただ寄り添ってくれたのが

そう、彼女、柴田淳だった。

 

柴田淳の曲は、暗いといわれる。

確かにそうかもしれない、でも、アルバムを1枚通して聴いてほしい

彼女のアルバムには、あちらこちらに、優しさが隠されている。

 

薄っぺらい言葉で励ますのは簡単だ。

でも、薄っぺらい言葉で励ますことは、果たして正解なのだろうか。

私はそうは思わない、彼女がそれを教えてくれた

 

悲しみという感情に蓋をする意味はどこにもない。

悲しみを悲しみとして受け止めて、自分の思うままに泣く方がよっぽど勇気がいる行為であり、大事なことだ

 

柴田淳の言葉は、悲しみに満ちている、確かに。

でも、それは、憎しみだけに満ち溢れたような歌詞ではない。

彼女の歌詞は、人の悲しみに寄り添う、言葉だと思う。

 

絶望したって、失恋したって、失望したって、自信がなくっても

不器用でも、社会に適合できなくても、失敗したって、何でもいい

沢山泣いて叫んで傷ついて立ち上がって自分の足で歩きなさい

 

彼女は、その詩の中で、私に教えてくれた。

彼女の声は湖畔のような静けさと清らかさ

彼女の作る音は、静かで力強いメロディ

 

そこに 本当の意味での絶望はない 私はそう思っている。

常に自分を追い込んで吐き出すように作られる作品群は、

まさに彼女の命そのものといえる。

 

ずっと14歳のころから、彼女に幸せになってほしくて

 

今回のアルバム「私は幸せ」と発表されたとき

私は どっちなのだろうと戸惑った。

体調不良なのも知っていたし、マイペースなのも知ってたから。

 

でも、このアルバムを聴いて答えが出た

柴田淳は、いま 自分なりの何か答えを出して、

自分なりの幸せなのだろうと。

 

PVとメイキングを見ていて、ほろほろと何かが流れた。

きっと、それは、「よかったね」というものなのか

なんなのか、それはまだ私にもわからない

 

 

引き継いでいくということ

私は、出自が少し特殊です。

 

いわゆるお嬢様といわれるのだけれど、本質はそんなことではないです。

私は、いわゆる自営業の娘です。

父や祖父が自営業、そして、私はフリーで仕事をしています。

兄弟はいるけれど、恐らく家の血を、性格という意味で継いだのはきっと私。

 

大人になると思います。

父や祖父が作ってきたもの、私たちに与えてくれたもの

それを絶対に、守り、引き継いでいかなければと思います。

何故なら、私は娘だから。それだけの理由ですけれど。

 

それを具体的に言うことはできないけれど、

それを必死に守らなければ、頑張らなければと思うのです。

涙が出るくらいに、形にもなっていないのに大事な宝物みたいなものなんです。

不思議なんだけど。

私はほかの家に行く身だけれど、継いだ血は、大事にしていきたいと思う。

私を一番知ってるのは私、ですが。私を近くで客観的に見れるのは親。

だから、親を大事に、一族を大事にいきたいと思うのです