私は幸せ 柴田淳

 

 

 2つ載せちゃうあほの子です

 

柴田淳 しばじゅん じゅんちゃん、そんな愛称で呼ばれる彼女。

かつて昼ドラの歌姫とかブログの歌姫と呼ばれてたかもしれない。

もう彼女を語るのには時間がたちすぎた。

私は14歳の時、新聞の紙面上で彼女に出会った。小さなCDのおすすめ記事だった。

そのタイトルは「未成年」

子どもの視点に立って大人を描いた今では、本当に秀逸な作品だと思う。

 

当時、14歳と思春期真っ盛りで、色んなことを考えていきづらさとともに生きながらえていた。

くだらない毎日に辟易して、MDの音楽で無理やり、学校に向かう気力を振り絞り、毎日勉強して、恋もして、でも、人間関係に辟易して、生きることにも諦めていた。

そして、何よりも大人に絶望していた。

優等生を演じながら、悲しみや怒りというものを封じ込めて生きていた。

仮面をかぶって生きていた。

 

CDショップ全盛期、浜崎あゆみと、宇多田ヒカルや、なんでもCDが売れる時代だった。100万枚も売れる時代だった。

そんな時代に、聴いてみようと、視聴目的で入ったCDショップ。

聴くまでもなかった、まずジャケットにほれ込んだ。

余りに儚く美しく黒髪の似合う・柴田淳という存在にほれ込んだ。

その場で、持っているお金で、視聴もせずにシングルを買っていった。

 

それが私の柴田淳ちゃんのファン歴の始まりだった。

私は、当時、不器用なのに、器用といわれたり、嫉妬されたり、色んなしがらみに縛られて、毎日に絶望していた。全てに絶望していた。

毎日に絶望して、学校に行くことの意義も見いだせず、人生も見いだせなかった。

生きてることさえ見いだせなかった。自信もなかった。

私はどこにいるのかさえ分からなかった。上手く笑えなかった。

このまま人生どこにいくんだろうと思っていた。

 

まさに悲しみや虚無に縛られているような状態だった。

でも、虚無や悲しいということを表現できなかった。

感情が無いに近い状況だった。

そんな状況を打破するでもなく励ますでもなく、ただ寄り添ってくれたのが

そう、彼女、柴田淳だった。

 

柴田淳の曲は、暗いといわれる。

確かにそうかもしれない、でも、アルバムを1枚通して聴いてほしい

彼女のアルバムには、あちらこちらに、優しさが隠されている。

 

薄っぺらい言葉で励ますのは簡単だ。

でも、薄っぺらい言葉で励ますことは、果たして正解なのだろうか。

私はそうは思わない、彼女がそれを教えてくれた

 

悲しみという感情に蓋をする意味はどこにもない。

悲しみを悲しみとして受け止めて、自分の思うままに泣く方がよっぽど勇気がいる行為であり、大事なことだ

 

柴田淳の言葉は、悲しみに満ちている、確かに。

でも、それは、憎しみだけに満ち溢れたような歌詞ではない。

彼女の歌詞は、人の悲しみに寄り添う、言葉だと思う。

 

絶望したって、失恋したって、失望したって、自信がなくっても

不器用でも、社会に適合できなくても、失敗したって、何でもいい

沢山泣いて叫んで傷ついて立ち上がって自分の足で歩きなさい

 

彼女は、その詩の中で、私に教えてくれた。

彼女の声は湖畔のような静けさと清らかさ

彼女の作る音は、静かで力強いメロディ

 

そこに 本当の意味での絶望はない 私はそう思っている。

常に自分を追い込んで吐き出すように作られる作品群は、

まさに彼女の命そのものといえる。

 

ずっと14歳のころから、彼女に幸せになってほしくて

 

今回のアルバム「私は幸せ」と発表されたとき

私は どっちなのだろうと戸惑った。

体調不良なのも知っていたし、マイペースなのも知ってたから。

 

でも、このアルバムを聴いて答えが出た

柴田淳は、いま 自分なりの何か答えを出して、

自分なりの幸せなのだろうと。

 

PVとメイキングを見ていて、ほろほろと何かが流れた。

きっと、それは、「よかったね」というものなのか

なんなのか、それはまだ私にもわからない

 

 

引き継いでいくということ

私は、出自が少し特殊です。

 

いわゆるお嬢様といわれるのだけれど、本質はそんなことではないです。

私は、いわゆる自営業の娘です。

父や祖父が自営業、そして、私はフリーで仕事をしています。

兄弟はいるけれど、恐らく家の血を、性格という意味で継いだのはきっと私。

 

大人になると思います。

父や祖父が作ってきたもの、私たちに与えてくれたもの

それを絶対に、守り、引き継いでいかなければと思います。

何故なら、私は娘だから。それだけの理由ですけれど。

 

それを具体的に言うことはできないけれど、

それを必死に守らなければ、頑張らなければと思うのです。

涙が出るくらいに、形にもなっていないのに大事な宝物みたいなものなんです。

不思議なんだけど。

私はほかの家に行く身だけれど、継いだ血は、大事にしていきたいと思う。

私を一番知ってるのは私、ですが。私を近くで客観的に見れるのは親。

だから、親を大事に、一族を大事にいきたいと思うのです

 

 

 

 

偽りのキラキラが生む狂気という産物

昨日の七人の刑事は非常に秀逸だった。

 

田舎から恵まれない環境で出生し成長した犯人が都会に出てきて

偽りの経歴と顔でのし上がり、それがばれ、実は今も偽りの場所で真実の愛にあこがれ続けながら生きている。そして、その嘘で塗り固めた仮面がはがれそうになったから、知っている物ばらそうとしたものを殺害する。恐ろしい話だ、だがリアルである。

 

みんな私に憧れている。

 

でも、彼女の本質は、「嘘」と、「寂しさ」

「私は、お金持ちで経歴もあって、仲間もいてハイスペックな恋人もいる。」

こんなことをネット上に自慢してSNSでどれだけの人が惑わされているだろうか。

そして、中の人の本当の姿は分からない。

 

つまり、誰にも真実は分からない。

関わった本人や、関わった人を除けば。

 

SNSで一定の地位にある人は2つに分かれる

 

本当の言葉と生活と工夫で勝手にのし上がった人たち

後者は、嘘で塗り固めた嘘のリアルでのし上がった人たち

 

アンチが生まれたとき、前者は逃げないだろうけど、後者は逃げてしまうだろう。

だって、偽りだからだ。

 

SNSではいろんな面がある。

ジャニーズをはじめ色んな芸能人のファンの中でもそういう事はあるだろう

一定の派閥はどこに行ってもある。

自分というキャラクターを演じているのか、自分なのか。

 

自分はいったい誰なのか、そんなことをいう人がたまにいる。

何事も、自分の言葉で論ずればいいのに

 

たまにそう思うことがあると同時に

過去に自分が嫌がらせしてくれた子に対して思うのは

 

私に、嫌がらせしても私が持ってるものは手に入らないし、

私からは離れていかないんだよって言うこと。

 

 

私がキラキラかは知らない。

でも、私は必死に毎日の生活を暮らしている

ただそれだけだ

 

結論になるのだが

愛されなければならないとか

~でなければならないとかそうおもうことよりも

 

そのまま自分であることが一番大事なんではないだろうな。

愛されるって、そういう事だから。

 

偽りの自分で近づいて愛されても看破されるし、いずれ皆にばれるだけ

その時、どれだけみじめになるか

なら、最初から等身大の自分で自分を守ることが最大にキラキラするだろうと思う

生きづらさとは

生きづらいと25歳くらいまで思っていました。

生きづらいって、みんな思ってるし、メディアも煽りますよね。

 

今は全然生きづらくないんですけどね。

 

生きづらさに共通項があるかって考えると

社会に出て働いてても生きづらい。

何をしていても生きづらい。

要するに、生きづらさに定義なんてつけづらい状態なんですよね。

 

生きづらいと嘆きながら、キラキラ女子になりたいと言いながらパンケーキを食べる

生きづらいと嘆きながら、さも自分は充実していますといわんばかりに、FBをアップする。

生きづらいと嘆きながら、高スペックの男子を探して彼氏ができないと嘆く

 

生きづらいなんて、私は言い訳と、自己責任の側面があると思っています。

生きづらいと嘆きながら何で生きづらいのかを解答を出さないようにする。

 

自分の心は、どこにある

自分の意志はどこにある

自分のプライドはどこにもつ

自分はどう生きたい

 

そういう側面がしっかりすれば。

多分、生きづらさなんて解消するんですよ。

 

私は

私の場合は、自分を摩耗して他人に合わせる自分を消してから

ふっきれたのかそれが無くなりました。

生きづらさなんてもの、多分幻想なんですよ。

果たしてそこは美しいのか

 

アホとは付き合うな。

よく言ったものです。

 

私はあることが原因で、全くいわれもない、

自分の仕事まで顔も知らない他人に貶されたことがあります。ネット社会の闇ですね。

私は1円を争う仕事をしてたりします。

 

でも、思うのです。

何か間違った方向に行こうとするときに、それを止める者がいるとして

多くの人は、それをたたくでしょう?

私は、その多くの人というのは、「どうでもいい他人」なのだと思います

 

自分で考えもせず、自分で学びもせず、自分で理解しようともせず

何もしようとせず、何かする人をたたくことだけする

それが今の社会の縮図でもあると思います

 

自分がどこにいたいか。そういう目に遭ったときに

深く長い時間をかけて考えるようになりました。

自分はどこにいたいのか

どうなりたいのか、どうありたいか、どうしていきたいか

 

ただ楽しいだけっていうのは楽なんですよ

でも、楽が楽しいかっていうとそれは成り立ちません

 

どれだけ思っていても、どれだけ行動しても変わらないものは変わらない

ならば自分が生きたいステージに環境に行くしかないんですよね。

 

生きるってきっと諦めと決断と努力の結晶なのだなって思います。

約束を守るということ

 

お金を払わなければ手に入らない情報というのが存在すると思います。

 

私は、その情報は秘匿する義務があると思います、

特にそれが明記されている場合は

 

私の友人は、それを言っただけでたたかれたことがあるそうです。

あまつさえ、仕事のこともバカにされたらしいです。

彼女が働いているところは国からの補助金が必要なため、

彼女の仕事1つで事業所が閉鎖になる可能性もあるくらいのところなのに。

 

 

お金を払った情報を漏らすということは

お金を払っているのに、それを0円で他人に漏らすということなんですね。

いわゆる無償の提供です。

 

それって税法的にみるとアウトだったり、

利益の提供にあたったり

立場を置き換えてみると、

例えばxxが倒産するから早く売ると誰かに漏らすとインサイダー取引になってしまったり。そういうことなんですよね。

 

 

お金を払っているなら何でもしていい 

そんな感じの理論なんでしょうか

 

謎ですね。

ならお金を払わないで情報を入手すればいいだけの話ですよね

って私は思います。

 

成立しないから

情報や、権利、法律はあるのにって思います。

 

ヘルプマークは小さな叫び

私は、見かけは普通の女性です。

 

でも、実は内部障害をいくつか抱えています。

ヘルプマーク、ご存知でしょうか。

私も持っています。

 

私は耳がある音域が極端に両耳聞こえていません

うつ病を遺伝性で持っているため、具合が悪いと、席に座っていることもきついです。

小麦の得意アナフィラキシーなため、発作を起こせば呼吸が苦しくなって死んでしまうかもしれません。薬を打たないと確実です。

鍛えていても呼吸器が弱く、ぜんそく患者並みの肺活量しかないです。

 

それでも、世間の人にはそれは伝わりません。

私が普通に歩いて普通に音楽を楽しんで、普通にご飯を食べているからです。

哀しいことだし、嬉しいことですけれど

 

私にとってヘルプマークは命をつなぐものです。

そして、災害時に判断を誤らないためのものです。

 

 

ヘルプマークというと仰々しく聞こえるかもしれません

けれど、普段は確かに、普通に生活を送っています、私の普通の生活を。

その中でも、本当は少しだけ不自由しているんです

みんな元気じゃないのが普通だと思う人もいると思いますが

 

いわゆる内部障害の場合は、そういうことではありません。

いきなり具合が悪くなる人もいれば、

命に関わる人、いざという時に身を護るために。

そういういろんな形があります

 

具合が悪くて優先席に座っていても

「若いんだからどけ」そんなことをいう方もおられることも事実ですし

普通の席に座っていても同じです

それは、怪我をして目に見えても同じでしたけれど。

 

 

でも、いつも助けてほしいわけではないんです、私たちは

少し具合が悪くなったり、倒れたりしたときに、

少しだけ助けてほしい、お願いだから命をつないでほしい

そんな願いを込めてつけている人も中にはいます。

 

色んな人がいるんです。本当に色んな人がいるように。

日本語って難しい、思いやりも難しい。

私は、普通の時は普通に過ごしています。ヘルプマークは外してもいます。

普通に席も譲ります。

 

いつも助けてほしい、そんなことは思っていません。

ただただ、ちょっとでいいから、困ってそうな時は助けてほしい。

そんな小さな叫びなんです。